[7.]汝の敵を愛せよ

 ラジオで先日、マーチン・ルーサー・キング牧師の事が紹介されていた。

 公民権運動で次の言葉を全うした人である。この「祈り」とは、迫害する者がイエスの救いを受け救われる者と成るように、である。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイによる福音書,5章44節 )。」

 これは、主の祈り「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ 」である。聖書で言うなら同じくマタイによる福音書,6章12節「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように 」。

 これは、赦しの赦される条件を言っているのでもなければ、赦しの困難さを促し神の自分への赦しを自覚させ他者への赦しを求めているのでもなければ、ましてや自分の他者への赦しの裁量に従い神の自分への赦しを求めているものでもない。

 教義でも無い。掟では無い。

 イエスの救いが人に実現しているなら、こう祈る者に成る。

どういうことか。

 イエスにより神から大いなる赦しを受けた者は、他者に対する赦しも大きく成る。心に受ける神からの赦しが乏しければ、他者に対する赦しも乏しい。ルカによる福音書,7章47節「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない 」。つまり、赦す者と成るのでこう祈る者と成る。

 “愛”であるが、日本語では1文字であるが、ギリシャ語訳聖書では3分類して訳されている。“エロース、フィリア、アガペー”で、情愛、友愛、自己犠牲の愛である。イエスの救いとはこのアガペーの愛により、常に人に迫っているものである。ペトロという弟子が居た。かつてペトロはイエスに対し信仰告白をしている「あなたはメシア、生ける神の子です(マタイによる福音書,16章16節)」。然し、イエスの十字架刑の判決の時にイエスを「知らない」と裏切った弟子である。その前にペトロはイエスに対し「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません(マタイによる福音書,26章35節)」と告白している。信仰告白者ペトロの裏切りは人としての弱さ故の事であった。故に、イエス復活後に弟子達に現れたイエスは、そのペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問い、ペトロは答えられず「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応え、それが3度繰り返され、その都度イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネによる福音書,21章15-17節)とペトロに告げている。依然として人の弱さを持つが、然しペトロは真実に応じ、それを承知しているイエスとの真をもっての関係の成立である。赦せ、と迫るが然し、赦し難い。この時に如何に救い主との関係が成立しているか、である。

 では、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」を言わしめる信仰を告白した者が悪事三昧の敵である場合は如何に。この敵はイエスを確信的に裏切っている神の敵である。人としての弱さによるものではない。

 我々はこの言葉を聞いている。「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません(5章16節)。... 子たちよ、偶像を避けなさい(21節 )。 」神以外のものを頼る。その全ては神の世界に於いては偶像崇拝となる。信仰告白者にこの偶像崇拝は赦されない。何を頼り、誰に自分を預け悪事を行い続けているのか。

 パウロは、神を欺き人を悪事の世界に誘い込み、神の救いから人を断つような働きをしている者に対し「わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました (テモテへの手紙1,1章20節)」と語っている。神の裁きの下に置いた、ということである。

 人に対し、1社会に対し行っている不法行為を容認するような赦しなど断じて無い。そのような赦しなど人として与えることも無し。その不法はその不法を行っている者が治める事に成る。「正しいことをしているのでしたら、顔を上げたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません(創世記,04章07節,口語訳)。」

 その不法者とは足の塵を払い落とし人として徹底的に闘うことになる。

_以上_

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